独断と偏見に満ちた米国事情~宗教編I(キリスト教)

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独断と偏見に満ちた米国事情~宗教編I(キリスト教)all over the place


前回の宗教編プロローグにて、「本場」のクリスチャンは半端ないという話をしたが、具体的にどういうことなのか書いていきたい。

まぁ、Dukeの1学期目の授業で、米国のクレイジーなキリスト教原理主義者の白人至上主義者の危険武装集団(ミリシアってやつです。アメリカという国は開祖の子孫たる自分たちWASPだけのものであり、市民は武装する権利があり、州政府自治を脅かす連邦政府は腐っている上陰謀にまみれていると信じこんで、いつでも武装蜂起できるように週末などに山で兵隊ごっこをする集団。)について、聞いていて頭がクラクラするような主張を過剰摂取したせいもあるので、サンプルが偏ったのかもしれないが……。

しかし、そんなにクレイジーでもない普通の人々でも、「いやなんか小さい時は日曜学校行ったし、今でもクリスマスくらいは教会行くけど、後は別に特になんにも…神様ねぇ。いるんじゃないの?どっかに」のレベルより敬虔なタイプとは価値観がまったく合わなかったのだ。ちなみに、私の今のルームメイトはこのセリフのレベルだ(あ、でも教会行ってないか)。

どうしてそんなに相容れなかったのかというと、話せば長いんだが、キリスト教の家父長制度と融合しちゃったコンサバな価値観をまともに受け入れちゃってる人(儒教思想も大嫌いなので、そういうのは脊髄反射でうざいと感じる)が、世の中には結構いる。具体的には、婚前交渉の禁止(男女でダブルスタンダードあり)、同性愛者の排斥(天国に行けないらしい)、進化論の否定、避妊・堕胎の禁止(これはカトリックだが、ついでに近代医学も否定したらどうかと思う)「信じる者は皆救われる」を大義名分にしながら見え隠れするレイシズム…その他もろもろ。

私が見てきた日本人の真面目なクリスチャン(カルトなどではない)には、必然的に裕福な教養人が多かったが、本場ともなると、信仰を愚かさと無知と偏見の助長にしかしていないクリスチャンが相当数いるのだ。そんな米国クリスチャンにうんざりして、私にとっての「キリスト教」は「信仰フォルダ」から「教養フォルダ」に永久封印されることになった。

あと、「信じる者は救われる」というキリスト教の大前提の教義だが、これは言い換えれば「信じない者は救われず、天国に行けない」らしい。私は本質的にシニカルなので、宗教全体を「人間が心の平穏を得るための手段で、精神安定剤やサイコセラピーより歴史が古く、定着が深く、道徳的価値観がやかましいもの」と捉えている節がある。実際、カトリックの懺悔室なんて、「罪の告白」をして「~すれば許されるよ」と権威的立場にある人から言われて罪悪感から解放されるわけだから、サイコセラピーそのものじゃないかと思う。

これに沿って考えるなら、なるほど「信じれば」(=キリスト教という心理サービスを利用すれば)、「救われる」(=心の平穏を得られる)には違いないし、同時に信じなければ元も子もないので救われないには違いない。

だが、もちろん本物のクリスチャンの心中はそうではなく、自分たちだけが天国に行けると思っていて、非クリスチャンは全員行けなくて可哀想なので、布教したりミッショントリップに出掛けたり、僻地に学校建てたり教会建てたり、いろいろ頑張っているわけである。それ自体は、立派に世界に貢献しているのだが、彼らの活動の動機には心から賛同できないのだ。

決してクリスチャンが全員そんなんではないことは知っているつもりなんだが、米国で出会う人達は、こんな風におめでたい考え方をしている人が少なくない。心の平穏は生きている上で大事なものだが、思考停止して変な価値観取り入れておめでたく平穏を手に入れる気にはなれないので、私は米国キリスト教を拒否し、現在に至っている。

この本は、新約聖書の中の初期のとこである、福音書だけのっけた読みやすい文庫である。入門としてはこういうのがいいかもしれない。新約聖書はキリストさんが生きていた時の話と死んだあとに没後弟子(笑)のパウロ氏が頑張る話の概ね二本立てだが、私はこのパウロ氏がとても嫌いなので福音書までしか読んでいないw

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

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