米国大学を語る際に、宗教の話題はやっぱし避けて通れないな、ということを実感したので数回に分けて書いてみることにする。日本人の宗教リテラシーのなさは色んな人の指摘するところだが、日本にいるぶんには特に困らない。けれど、米国に長期滞在するつもりで赴く際は、自分の宗教上の立ち位置をある程度決めてからかからないとまずいことになる、という話だ。特にキリスト教との関係については。
まず、プロローグなので、私自身とキリスト教の関係から説明したい。結論から言うと私は宗教にありがたみを感じない人間(Agnostic)だが、宗教リテラシーはある方だ。
皆さんも知っての通り、私はプロテスタントの女子校に6年間通っていて、その間は毎朝自前のチャペルで礼拝があった。形式としては、奥ゆかしいクラシックな賛美歌をオルガン伴奏で歌い(6学年いるのでかなり聴き応えがある)、担当のクリスチャンな先生が実体験を元にした聖書がらみのスピーチをし、締めにもう一回歌って教室帰って、さあ今日も一日頑張りましょう、となる。
このスピーチ(お説教というほど有り難いわけではない)が結構長く、面白さにバラツキがあるので、相当数のフェリス生はこの間に足りてない睡眠を補う。ただ、幼い頃からADHD気味のある人々は、かわりに手元にある聖書を暇つぶしに読み込みまくっていた。私もそのひとりだった。(注:アメリカ人には自虐的なジョークで自称ADHD=注意力欠陥及び多動性障害がやたら多い。その実、「ちょっと落ち着いてつまらない話を聴いてられない」レベルであることがほとんどで、実際に診断されてリタリンを処方されるレベルではない。もちろん私のもその手合いだ)
だから、クリスチャンでもなんでもない、それどころか元コミュニスト唯物論者の親を持つ私は、聖書の中身にやたら詳しくなった。アメリカ人の毎週教会通いする家の息子よりも。ユダヤ人の毎週末ヘブライ教室に通っていた家の息子よりも(注:ユダヤ教の聖典と旧約聖書は、「ほぼ」一致する)。
聖書の中身に馴染みのない方は、ぜひご一読をお薦めする。最初のほうは特に、不条理な神話、伝奇が好きならたまんないと思われる。13歳ながら、「こんなん子供に読ませていいわけ?」と私が思ったレベルの艶っぽい話も多い。米国で生きていくにあたって、というか日本以外の世界とちょっとでも触れる予定の人は、最低限の教養の由来としても結構大事だ。(例:たとえば、米国で「ゴモラ・パーティ」なんてコトバを聴いたら眉をひそめるか、にやにやするべきであり、間違ってもそれなあに?、なんて無邪気に聞いてはいけないw)
そんな風に、あくまで聖書を「たのしい読み物」として親しみながら礼拝をほぼ無視していた私だが、授業はちゃんと聞いていた。生徒をクリスチャンに帰依させることには興味なくてもリテラシー教育に積極的だった学校は、1年間のうちに、「聖書」「世界地理」「歴史」の実に3つの違う授業でパレスチナ問題を3回やった。宗教の負の側面も知っておけというわけだ。
私は、高学年になるにつれて、横浜の外人教会に潜り込んで無料英会話を楽しみながら礼拝参加するにつれて、宗教に帰依することの最大の効用である(と私は思っている)、「心の平穏」に魅力を感じ、本気で洗礼を受けようか考えたことがある。それを最後まで思いとどまらせていたのは、歴史の中から現在から、クリスチャンが神の名のもとに引き起こした数々の惨禍と、「今ここでクリスチャンとして洗礼を受ければ、そういう自分の最も忌み嫌う輩と、世界レベルでは、同じくくり、同じ宗教ということになってしまう」という認識。この考えを乗り越えないままに私は渡米してしまった。乗り越えるまで洗礼などもちろん保留で。
本当に、それでよかったと思う。それだけ米国で接したクリスチャンの実態はやってらんないものだった。キリスト教に対する理解はそこらの人よりあったつもりなのに、甘かった。本場のキリスト教、本場のピューリタンには太刀打ちできなかったわけだ。
続きは宗教編Iにて。
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