扇情的なタイトルだが、粛々と母校のネタで導入しよう。
ご存知のようにフェリス女学院は元祖外資系クリスチャンの学校なので、宗教的なことを考えるイベントが、定期的に行われる。とはいえ、生徒のほとんどがクリスチャンではない以上、信仰の話などではなく、むしろ宗教的な価値観に基づいて倫理的な問題を考えてみようという、ある程度有意義な会合になることが多い(←宣伝w)。
そういうイベントは、割りと楽しんで参加していた方だが、キリスト教の中で最も自分と相容れない価値観のひとつにも、出会ってしまった。学校の招待したどこぞの牧師先生のスピーチに曰く、
「わたしたち人間は、か弱く愚かな羊の群れであり、主はそんなわたしたちの牧者なのです―」
今思い返せば、人間が絶対者の前ではアホな羊の群れであるというアナロジーを思いついた上で万人に説いた誰かさんの気持ちもとてもよくわかるんだが、
ちょっとお待ちください―と、14歳の私は声を挙げた。
「牧者に導かれると言えば聞こえはいいのですが、わたしたち人間を無力かつアホな羊の群れであると例えるのはあまりにあんまりではありませんか?
羊をはじめ、家畜っていうのは、所有者の都合によって自由を奪われ、肥え太らされ、毛や角を刈られ、そんなおのれの立場も認識することないまま、従順であるよう犬に見張られ時に互いを監視しあい、また所有者の冠婚葬祭の際などに屠られ美味しく食されるのを待つ存在です。ほら、聖書でも随所に祝いの際には肥えた羊を屠ってるじゃないですか。とてもめでたそうに。
確かに、きれいな水場や青い草原に導いてくれて、野獣からも守ってくれる、優しそうな牧者に憧れ愛するのはわかるけれど、だからといって自由意志を持ちおのれの人生を主宰する立場にあるはずの人間が、絶対者の家畜に甘んじていいはずがないではないですか。そんなん、ただのMじゃないですか―」
と、私は……もちろん言わなかった。が、おそらく14歳らしくはないが、同じような意味のことをもっともやもやが残る形で表現しようとしたと思う。だが、骨の髄まで立派なキリスト者であっただろう、その牧師さまは、ただ苦笑した。
「でもね、牧者にとって、羊って可愛いものなんですよ」と。
答えになってない(笑)。
そりゃ、可愛いだろう。都合が良すぎて笑っちゃう存在なんだから。
現代日本では、特定の会社員を「社畜」と呼んで皮肉っているらしい。奴隷ではなく、家畜。
奴隷だって人間なので、あまりに所有者の扱いが悪いと、命がけで反乱を起こしたり逃げたりするもんだが、すすんで運命を受け入れている家畜は自ら主張する言葉すら持たず、逃げようものなら柵の外で野獣に喰われるものと信じて疑わず、理不尽に扱われると病気になったり鬱になったり、それがもとで死んだりするだけで、家畜をやめることはできない。奴隷制度を非人道的ゆえにやめよう、と歴史の各所で人は努力してきたが、家畜そのものをなくそうとした人は、ラディカルなVegan(卵も乳製品も食べないベジタリアン)以外聞いたことがない。病気や鬱になると、肉質も悪くなるので、扱いをマシにしようと、多少反省するだけだ。
米ウォール街の投資銀行新米アナリストは、自らの仕事を奴隷労働と揶揄することが多々あり、陽の目を見られず、深夜まで明け方まで、理不尽なボスたちに体をいいように酷使される引き換えに人より多い賃金が手に入るその職位を売春婦になぞらえた子もいた。だが、いくら彼らがこんな自虐を言おうとも、その目は多額のボーナスと、この過酷な経験をベースにして成長したおのれが将来得られるであろう、さらに多額の金に向けられている(そうでなきゃあんな仕事する意味わかんないw)。景気が悪いので、競争は激しくなるばかりだが、賢いのでプランBとかCも考えているだろう。
逆に、そんなんやってられるかと思うなら、彼らの1/2以下の給料で細々やっていけるけれども夕食までに家族に会えるような職のオプションが、大卒者には用意されている(まさに今の私のように)。これも景気が悪いから大変なことにかわりはないが、浮いた自由時間でスキルを磨くなりしつつ、キャリア市場で差別化を図るとかいろいろできることはある。また、学歴が低く、スキルを持たない者の賃金は低いが、彼らもその賃金に見合う労働しか提供しない。
つまり、こっちでは、学歴や収入の上下に関係なく、見返りの分だけ、働いている。別にアメリカマンセーではなく、本来なら、人間誰しもそうでなきゃ、気持ちが悪い。話を聞くに、社畜とはどうやら自分の認識する見返り以上に仕事をし、それなのに色々と正当な権利を主張することが憚られる状態にあるという。
私は社畜ってのがどういうものか、伝聞によってしか存じ上げない。
だが、Elm200さんによると、端的にはこういうことらしい。
たとえば、自分のビジネスを大きくして、将来大金持ちになり、それで家族を楽にしてやろう、そのためにいまは家族との時間を犠牲にしても頑張る、というならまだわかる。しかし、そういうビジョンもなく、一生サラリーマンとして安月給に甘んじながら労働時間だけ長いというのは、本人たちには気の毒だが、滑稽としかいいようがない。(中略)サービス残業なんていうカネにもならない長時間労働をやっているのは日本人しかない。アメリカ人や中国人には理解不可能だろう。 |
そうだとしたら、何か目に見えないものが、彼らの心のバランスを取っているはずだ。
その「見返り」と「労働及び忍耐」の差異は、一体どこにあるのかと考えて、冒頭の「神と羊の群れ」の例えが浮かんだ。宗教が心の処方箋であるように、賃金も家族との時間も奪われているというのに、「辞令一枚で地の果てまで飛ぶ」「熱があっても休めない」「サービス残業」「有給が取れない」理由を、「フッ(苦笑)、それが社会人だから」と答える人々の心には、ある種の宗教じみた思い込みと、マゾヒスティックな快感、停滞による安心感があるのではないか。
鍵をかけた寝室の向こうで、どういった被虐加虐プレイで快感を得るのも本人の幸せだが、私のごく少ない人生経験から、これだけは言える。
人生そのものを被虐プレイにした上に、それに家族まで巻き込んだりする行為は、確実に不幸にしか呼ばないよ、と。
それにしても、14歳の私は、どうしてひつじ論にそんなに反発したのか。
たぶん、家庭教育のせいだ。
父親が、私の幼い頃から本当に口を酸っぱく、それこそ家訓のように繰り返し語った故事が、以下だ。
「ブタとイノシシがいた。人間は、イノシシの一部を家畜化し、それがブタになった。ブタが厩舎の中で、人間からエサを与えられ、肥え太るにまかせ、悩みもなくオオカミからも守られる快適な生活を送っていた頃、イノシシは野で駆けずり回って食べ物を探し、子どもを命がけで野獣から守り、あくせく苦労していた。だが、時が来て、ブタは屠られて人間の食卓に並んだが、イノシシは苦労した分強くなったので、どこまでも自由だった。
君はどっちの生き方がしたい?」
日本で万人向けに被虐プレイではない、合理的なキャリアチョイスのノウハウを発信した本で有名なのは、とりあえずこれだよね。
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社畜化の原因ですが、これは、まあ、日本の雇用慣行(新卒一括採用、終身雇用)とか会社の規模別賃金格差が不合理に大きい(下請け搾取)等によって、大企業に入った社員は会社に囲い込まれると同時に自らの計算によって囲い込まれた方が得だと考えて従順になるんだと思います。
ただですよ、実際はなかなかどうしてみなさん、決してまじめな方ばかりではないですね。
例えば、近所の大きい公園の駐車場、昼間から営業者がずらりと駐車して、時間潰し(さぼってる)してます。あるいは、ターミナルの映画館なんかスーツ姿のサラリーマンが多い。2,3時間サボった後、何食わぬ顔をして会社に戻るんでしょうね。
普通の日本人は拘束時間が長い分、そう、まじめに働いているわけではなく、適当に息抜きしながらダラダラやっています。
金銭的にも中堅社員になれば、納入業者からリベートもらったりできますし、就職した会社で役員になれなくても、子会社や関連会社でそれなりの地位をもらったりして、楽できるシステムが整ってます。だから、社畜化しているわけで、みなさん、ちゃんと計算の帳尻があってるわけです。
この点を指摘しないと、日本人ってただの変態ってことになっちゃいますからね。
だから、上司や会社に見えないところでは適当に手抜きするような、狡さがない人、例えば酒井さんのようなタイプは途中リタイアの可能性が大きく、リタイアした場合には、損ばかりで割に合わないわけです。